地震により新幹線が東京から那須塩原までの区間運転となっている。金曜日に神奈川の職場をでてバスを待っている空には時間を感じさせない夕方の空が広がっている。軽く30分は乱れるバス路線は時刻表では10分後でも実際は20分ほど遅れてきた。乗ったバスはちょうど椅子が埋まったあたりの込み具合でさらにこの先に働き終わりでバスは混む。終着の乗換駅につくロータリー前のバス停でいつものように数人おり、彼らのほうが先につくか、バスのほうが先につくかやや運命にゆだねて降車した乗客たちを無関心な心持で見つめていると、向かいからでてきた回送バスを流したところでバスのほうが先につきそうに動き出した。まず東海道線のある駅までくだり、そこから東京へ、新幹線へ乗り継ぐ。感染症もはやり在宅勤務も増えたことから、退勤客は少ないのでは?とも思ったのだが、そこそこ座席には一人は座っているほどの乗客で東京駅を出発した。大半は小山駅宇都宮駅で下車したが、那須塩原までのり、そこから黒磯駅に。黒磯は交直切り替え駅でむかし黒磯から仙台に向かう臨時快速にのった以来、ひさびさに乗り換えた。発車まで30分以上もあるのに待っていてくれた電車は常磐線で使用されている車両であったが、車内はボックスシートであり、新白河駅までの夜の東北線の運転本数が少ない区間を走っていく。暗闇の中を空いた普通列車が走っていくのは至福の時間だったなと高校時代の一人旅のころにかぶせて思い出し、そのあたりからイヤホンを取り、電車の音と停車時の外界の音を体の中に住み込むように聞いていた。乗り換えた福島行はロングシートだった。当時は新車だった車両はやや汚れて、椅子も色の褪せを感じる。だいぶ生活になじんだのだなと感じる。0時ちょうどに福島駅のホテルにつき、まだやっていた牛丼屋で夕食をすました。寝るだけだったホテルをでて、始発の仙台行きのなかでいただいた朝食のパンを食す。睡眠をしただろうか。1時間半ほどで仙台駅に到着し乗り換えて山形へ。作並あたりまででだいぶ客が減ったが残っていた若い女性たちはなにかアイドルのライブでもあったのだろうか、似た雰囲気を持っていた。雪の中面白高原あたりを走り抜ける仙山線は、磐越西線奥羽本線でもある高速で峠を越える鉄道で個人的にはとても好きだ。終着駅には5分遅れだったため、仕事場にもいくらか遅れてしまった。帰りは米沢から新潟に抜ける快速に乗ったが、途中で強風による徐行と対向列車の遅延で30分待ちもあった。そりゃ仕方ないなと新潟から東京に向かう新幹線は待ってくれなかった。用意してくれたホテルがあったことが本当に助かり疲れもあってコンビニのご飯をたべて寝てしまった。始発の新幹線は二階建てじゃないということで二本目の新幹線に指定をかえた。いつも以上に睡魔があるのは目的地が住んでいるところに向かって走るからだろう。とにかく眠くて上がってくる無邪気な太陽に背中を向けるようにして寝ていた。ついた東京駅では疲労感と眠気でけだるかったが、乗り換えた横須賀線ではついに時間と太陽で眠気をはぎおとされてしまった。そうして覚醒したまま日曜日の自宅についた。このところ岐阜方面への仕事も増えて移動距離がどんどん増えてきている。大半は新幹線や在来線のグリーンで移動しているのだが、深夜の普通列車の魅力を、大好きな温泉につかったときに感じる何とも言えない幸福感に沈んでいく感覚に似た、しみこむように思い出させてくれた。

新宿駅のバスターミナルがまだ整備されておらず、ヨドバシカメラの向かいのただでさえ人々が道を行きかう中足繁くバスが発着するバスターミナルは、昔から中央高速を経て山に向かう高速バスが多くある。そのためか乗客もそれなりに旅行に向かうというよりか登山客が多く、かつ数回は利用している人たちであろう。手慣れて行列に並ぶ。一方普段着の乗客は大体が若く、実家に帰るのではなかろうかと思われる井出達だった。私はそのどちらにも属さず、つれていた女性と甲府の先の一宮まで乗り、いわゆる盆地の壁の内壁の斜面の途中を走る街道で降ろされてからとぼとぼと緩やかな傾斜を上った。個人でやっているワイナリーで試飲させていただき、秋なので桃はすでに枝だけであるけれど、内壁から底を見下ろしながら畑の中にある小道を酔い覚ましがてら彼女と下る。冬ではないけれど日差しが冬の夕方のような強さと、日差しに周囲にはまだ暖かさを感じる柔らかな空気が印象に残っている。大体このまま駅に着くころには日が暮れていて、帰りは熟睡していることが常であった。

午前だけ仕事で、しかも終わるのが伸びてしまってすぐに電話して会った彼女がけろっとしていて、私だったらイライラしてしまうかもとなんでまあ心が狭くなったものかと駅前の丸いロータリーを歩きながら冬晴れ。あまりあてもないが成田のほうにある温泉にでもいくかと思い立ち、東京とは逆方面にのった。この路線は途中から運転本数が40分に一本と極端に少なくなることも知らずに乗換駅に着いた時には、昼過ぎで食事をすることにした。ニュータウンてこういうことか、と整然と淡々としたリズムで家が立ち並んでいるのをみるのだが、どうも人影は少なく、歩道のコンクリートはところどころ隆起して荒れている。徒歩5分くらいの和食屋があったためそこで昼食をとり、温泉の最寄り駅に着いた。最寄り駅は、殺されたとされる女性の車が発見された公園が近くにあることは知っていて、半ば私はそこに行きたかったというのもあったのだった。連れてきている彼女には写真が撮りたいからと告げ、散歩がてらその公園に向かう。ニュータウンということばにさらに相応しいのではないかと思われる地区を左に眺めながら、一方でゴーストタウンのようなひとけのなさでもあった。右側にはおそらく旧来からある工場があり、ちょうど黒いジャンパーをきた50代くらいの女性がでてきた。いささかニュータウンとも似つかない質素な格好だったが、工場の看板の時間を経た色合いとはとても合っており、腑に落ちる。それを超えると鈍角に道は曲がり高低差のある公園につく。また上がるのか。と思ったが彼女の話声も聞かずに、落ち葉を清掃していた男性3人の恰好を注視していた。捜索をしているのではないかと思ったからである。どうやらそうではなく単に落ち葉を掃除しているだけのようだったが、轟音とともに吹き飛ばされる落ち葉をみているとどうも落ち着かない。テレビでもみた駐車場が見えてきたが、これ以上は近づきたくない。と輪郭のはっきりした意識が見えてきた。左手には古墳群があり、古墳の上からは沼が見渡せている。そして大型のトラックが入れる産業廃棄物処理場も眼下に見え、左手にさらに体を回すとニュータウンの街並み。ひとけのなさと街にどことなく褪せた色を多く感じ、彩はなかった。夜になるとさぞ寒く暗いのではないか。そのままタクシーに乗り込み私たちは温泉に向かった。

まだ学生時代に恋仲であった女性がおそらく殺されたと告げられ、調査協力のために一度押収された携帯電話が手元に戻ってきたころ、ちょうど休みが平日にとっていた週があったことに気づいた。いつも海に行くときは小学生からの仲の友人に車を出してもらうことが多かったし、今回も車を出してほしいと彼に告げた。その前日の夜に、仕事が休みになったから空いたよと返信メールが来ていた。遺体があるであろう場所に行くには鉄道では行きにくくそのこともあって彼に連絡したのだが、時間がたつと、なにか底沼のない暗闇に感情が少しずつ引き込まれているのではないかという感覚というよりかは実感が出ていた。小学生くらいだっただろうか。自分が実はとても小さい動物で、世界はもっと巨大な人間や建物や世界で構成されているのではないか、あるいはそれの逆に私たちが巨大すぎるのではないかと、なぜだか発熱した時にそれを感知して鳥肌が立つような意識を刷り込まれるような恐怖と、目に見えない漆黒かまっしろな雪の中にいるが混ざり合い始めているころに感じる不安定さを覚えていた。それに似た感覚がこの歳になって前日にふいにやってきた。平然とした朝を家族ですごしたのちに決心するのではなく、覚悟でもなく、臭いものに蓋をして足を投げ出す感覚で扉の鍵を閉めた。時間の接続が悪く30分弱次の特急までかかってしまった。足を投げ出したくはやく住居付近から早く遠ざかりたい感覚が強く、特急の前に走っていて結果的に追い抜かれる普通列車でも遠ざかるのならばいいかと思ってしまうほどだった。よく晴れた冬の空気感の中、仕事の合間に特急列車に乗るいでたちの男性数名とわたし。1時間半ほど乗車して隣接県の主要駅で乗り換えたローカル線は1両編成で、なるべく自分が落ち着く音楽を聴きながら、太陽は昼の光を車内に運ぶ。もし車でここに来るとして友人とはいえ2時間は他人といなくてはいけない。この冬の日の晴天と、鬱蒼とした精神状態の間にできるのであれば他人はいてほしくないと思っていた意識の輪郭がはっきりしてきた。1985年開通したこの路線は、ローカル線にもかかわらず高架のホームだったが、駅前には車の点検をしてしまっているタクシーの運転手しかいなかった。お願いして乗り込み、5キロくらいだと見積もっていたが距離を感じると歩くには無理だったと思う。その角を曲がった先を、首を突っ込んで覗くときに必要な勇気と覚悟のようなものが要るのではないか。もはや方言交じりの運転手の話などうわの空で、駅前の閑散さとは裏腹に街道はたくさんのトラックの往来でせわしないときに、心の中で集中して、5キロ先を見透けるようにと数時間前には臭いものに蓋をしていた自分が情けないほどに焦りを感じていた。つきました。と言われて支払い降りたところはまだ海が見えない。駐車場から丘を越えていかなければいけない。家族には何も伝えていないために仕事道具も手に携え、その丘を越える。海からの風をうけて傾く枝や幹の木々が独特な雰囲気を持ち、空は青々としているのに木々は淡い色味で、ある程度整えられた芝生もクリームのような色合いだった。おそらく空よりも濃い、青々とした海が広がっているのだろう。芯の硬い布の塊を掌で抱え込んでいるとしたら、じわじわと手汗がでているのか湿度が上った。丘を越えて見えた海は命が生きているような鮮度で脳に入ってくる。気持ちまでもが鮮度に圧倒され、3月以降止まってほこりをかぶっている古い記憶を忘れそうになる。釣りをしている人が数名いる中ほどよく座れる椅子に腰をかけて思ってつくった曲を音量最大にして聞いた。曲を聴くというよりはその間に瞑想をして、なにか声が返ってこないのか心の中で研ぎ澄ました刃先をゆっくりと回転させる。なにかを触れることができないのか。そう思いながら20分の曲は終わった。北上をして海の家の廃墟があるあたりではコンクリートが崩壊しており、その先に廃墟になったホテルと広々とした駐車場があった。

泊る予定だった相手の看護師の女性から、祖母が下血したとのこと。おそらくがんではないか。とのことだった。人生は一度しかないから。とすこし低い声で話している彼女は自分の人生をどこかで必ず前向きに、というよりかは重たいものを軽々もっているときの声をこめているように聞こえてしまう。母親譲りなのか、看護師としてがんセンターで働いているからなのか。とても鍛えられているようにも思ってしまう。看護師あるいは母親が看護師の娘さんと深い関係になって知ると、図太い人間力を本当に感じる。感心してしまうことや、とびぬけていて冷静になってしまうこともあるのだが、ある事柄を考えたときに瞬時にあらゆる考え方を装備している。わたしもそのうちの一つか、多くて三つを備えることはできるのだが、それを超えた種類と奥行きをすでにもっているのだった。ほどよくすいている快速に乗り込み130キロという高速で飛ばすも、秋葉原付近になると各駅になる。日比谷線の入谷や三ノ輪もそうだが、都心にはいるわずか手前にある乗換路線のさほど多くない駅は、乗換路線がないが乗降者数がそこそこいる。路線のもつ利便性を求めると優等列車でも停車する必要があるのだろう。買っておいたハイボールを飲むタイミングを失っていて、えいやっと深夜12時回ったころに飲んだのだが、夕食にコンビニのかつを食べたのもあるのだろうが、早朝5時半には胃もたれで目が覚めてしまった。

神領区の165が運用に入るのを好んでいた。JR東海165系や付属編成だけだったが113系は背もたれに白い布を置いてくれていて、かつ台車も灰色に塗られて清潔感があった。当時東京駅発の大垣夜行373系で指定席だったが、大垣救済臨時は品川発だったが全社自由席だった。定期便は途中から普通列車となり名古屋方面の朝の普通列車を担う一方で救済臨は大垣まで飛ばし、関西にも早く着くことができた。当時の救済臨は神領区の165系、新前橋の165系、田町の165と167、さらには神領113系も投入されていた。いまは上野東京ラインで使っているホームは当時臨時ホームで、国鉄の茶色に塗られた103などが展示されたことがあったように思う。

夏の暑いころに9時半ごろに品川駅の臨時ホームで並んだころにはすでに並んでいて、ただ席には座れるだろうという並び具合ですでにその時刻を把握していたように思う。高校で仲の良かった友人と乗り込んだ165系ボックスシートは確かにすぐにうまり、横浜を出ると通路までうまって立ち客も出ていた。向かいの酔ったサラリーマンは東京からいたのだが、熟睡していたが、とうとう翌朝岐阜で降りたがあれは正解だったのか?とぐだぐだ睡眠もせずに話していた記憶が懐かしい。豊橋でたしか長時間停車をして一度コンビニで夜食をかったこともあったが、この込み具合じゃ無理だとくくった思いでがある。そのころには進行方向向かって左手に朝日の日差しがはいるころに重たいモーターのうめきとともに貨物ターミナルをすり抜ける。非電化の区間が多いためか気動車の油のにおいが窓から入る。長良川を渡るときの朝日が気持ちよかった。大垣駅には一番のりばにつく。一か所しかない乗換階段のいちをめざしみなおもむろに席から立ち上がる。

一夜をうるさく、風もはいる東海道を、油のにおいとなんでもない時間で過ごして、しょうもなく寝不足で乗り換えるために気持ちをせかす大垣駅に着く前せわしなさ。

何回もそれを繰り返しているからか、米原につけば長編成の新快速がいるからいいやと高をくくっていたように思う。ふるびた窓枠にRのある113系が待っていて、前日に関ヶ原には雪が降ったのであろうと思うような風景が流れる。すぎる途中駅の喫茶店で昔、真夏の撮影後に友人がアイスクリームを食べたくてアイスといったらアイスコーヒーがでてきてやや文句をおばちゃんにいったらかるくあしらわれたことをいつも、いまも思い出している。透明度の高い記憶はみずみずしい緑の畑とその奥の深い緑の荘王さに、いまも新幹線からみての関ヶ原という場所には感じてしまう。引き込まれるような場所だと思う。さて、米原には日本海からの線路が合流する交通のいわゆる辻だが、これがまたとても味わい深く、米原駅特有の空気を放つ。いまは気軽にホームを跨げばしらさぎは止まっているのだが、ホームのそば屋や洗面台が駅のホームにあることや、以前は気動車も出入りしていた形跡をのこすスペースが旅情を掻き立てる。のぞみが通過することはとても現代的だなと感じる。

昔の時刻表から眺めていると、JR西日本自慢の新快速は徐々に米原、いまは敦賀まで伸ばしている。以前は京都、草津どまりだったようだ。都市間の連絡性が増えているのだろう。583系のように寝台、座席、A寝台、グリーンなどを兼ね備えた合理性を求めた車両は、その後日本海縦貫線には似合った。点在する都市に対し走る夜行列車が深夜であろうが需要があり必要に応じて利用するといった急行きたぐにを育て上げた地区でもある。通勤ライナーやそういった通勤に使う優等列車は都心で育てた列車であるし、新幹線も幹線を育てた結果だろう。583系はそれにあったニーズに対応できた車両だったのではなかろうか。

仙台電車区583系を青森から6連に短縮して全検に通したのには心底驚いた。485系も6連で用いていたことからすると、新幹線ができる前にどれだけ恩恵があったかをおもんぱかってしまうが、それでもロマンがある検査だった。黒磯発盛岡行きの583系臨時快速にのれたのが最後で、仙台で下車した。旅情というものはなかなか感じる暇もなくなっている。

高校時代はまだガラケーで、出会い系サイトで出会って、病んでいたその子は胸元がみえるインナーで写メを送ってきてわたしはたまらずに大学生になって会いに行った。たしかオムライスを食べたのではないか。アーノルドパーマがすきだからと服をかった。いまももらったベルトや服がある。あんなにわたしは傷つけることをしたのに好き。と言ってくれるあの愛情は、本当に深く深い、その優しさから出てくるものではないのかと思う。たとえば、石や土を何年もかけてなじみ、でてきた純粋な透明な液体に反射している周りの風景の濃縮した輝きをそれに重ねる。マスコミが追ってきていることを考えると今すぐに茨城県の海岸にはいかないほうが良いと考えているのかいまだった。それはやや言い訳のような含みを持ってしまっているのも事実なのだが、受け入れる心がまだなく、突如として道路に穴が開くような現象が心に起きる予感がしている。心に明らかに感情のノリが悪い領域ができている。塗ってもはじかれる絵の具のよう。過去のことを思い出してもいまの感情がどうも動かない。こころのなかでは生きてしまっている。生きてしまっていて死んではいない。遺体が見つかった時私はどう思うのだろう。そう考えても形式的なことばだけで中身は追随してこなかった。