研究室の打ち上げで大学近くの今はないイタリアンで食事をした。評価の高い街のイタリアンで、基本的に暖色の室内で、白ではなくクリーム色、茶色ではなく焦げ茶色、緑ではなく深緑といった色にコクがあるのではないかというくらい、長年の使用感も混ざって感じる室内だった。おそらくずっと作ってきたのであろう味わいに自信と強さを感じる料理を、比較的若めの白ワインでおいしくいただいた。解散後近くでホテルを予約してあったため、向かった。すでにコースを食べていてからのロゼワインは結構まわったように思う。薄暗い部屋で一緒にいた彼女は社会人から学生になり今は同業だ。改めて二日酔いの私を助手席にいれて臭いと笑われながら群馬県の温泉に向かったのを思い出す。渋谷の個展会場での打ち上げの際に来てくれた彼女が途中で帰宅したものの学生時代からの付き合いの女性と展示にかかわってくれた医学生の女性と3人でその夜は川の字で寝た。下着をつけてないなどとけらけら笑っていた声を聴いて、そのまま眠りに落ちた。翌朝はすでにだれもおらず、炊飯器が不調ということだったが、ばりばりに固いお米を食べて、すでに太陽は上のほうになっている吉祥寺を渋谷に向かって井の頭線にのった。本当であれば朝10時につく予定だったが、とうに午後一時手前の影を作らない太陽の位置が、来訪者に会えずじまいだったことへの申し訳なさにも影を作らなかった。来訪者は個展の会期の頭に訪れて興味を抱いていたようだ。その後その来訪者の個展に向かった。たしか恵比寿駅から代官山のほうに進んでいく途中の交差点をまがって、やや坂を上がったところ。昔からやっているのであろうママさんとこげ茶のつやのあるアンティークのもつ風格が圧力として感じるような空間で、彼女独特なタッチと感覚的な色使いで描かれていた。自分のブランデイングもできていながらたまにテレビに出たりする彼女は、ビジネスにありがちな顔つきや話し方、例えば会話の時の歯の見せ方などがあると思っているのだが、一切感じさせない。ファンクラブがあるから働かなくても定期的にお金が入る。ということばをいつか聞いたが、それはこれから数か月たっての話だった。渋谷から246を三茶方面に向かう通りはどうしてこう世界観が出来上がっているのだろうか。写真関係でお世話になった会社があるため何度かこの通りを歩いたが、行きずりの、しかもいざ向かったら比較的散らかっていた部屋で行為をしたのは三茶の交差点から少し奥に入ったアパートの二階だった。ふと、カメラが趣味だった控えめな女の子も三茶にいた。当時買い集めていた古いドイツ製のレンズを欲しがりそうに触っていたのを覚えている。ふわふわした柔らかいシートをソファにかけて、透明の板の机の上にそのレンズをのせるときは、傷つかないものかとひやひやした。会話中の突っ込み方や、ためてから笑う笑い方は特徴的だった。かたやいきずりのほうがお土産としてどこかにつけまつげをつけてきてしまったことに気づいた。そんな三茶の記憶は246を渋谷から向かう頃にはまだ匂わない。来訪者の彼女の部屋は渋谷からタクシーでワンメーターの距離だから、酔った後はタクシーで、そうでないときはあるいは朝は徒歩で渋谷駅に帰ったが、どうにも車線が多すぎてわたるということが億劫になった。都会の一人暮らしの生活だった。良く騒ぐ犬を飼っており私の下着をやたら咬むのだった。時間があったのか、前日夜に向かって泊まった翌朝にみたテレビでチキン南蛮をやっていて、その日の昼にはもう彼女が作ってくれていた。どうしてこうもおもてなしてくれるのか不思議でならなかった。なぜだか彼女の部屋の窓のカーテンは開ける気になれず、おそらく目の前には高速があるのだが、曇りの日の朝などはベランダの緑がすこし開いたカーテンの隙間から見えており、近辺を高速で車が通過しているとは感じられない光景だったと思う。拠点を四国に移すと聞いたとき私も来ないかとさそわれた。まだこちらは東京でやることがあったため断ったが、その後距離がおのずと空いた。予定が空けばこちらは違う感情を日常に織り込んでまた生活するのだが、非連続的な周期で会ってはいた。行為を終えるとお互いなにか感じたようでそれ以降は会わなかったのだが、最後は新宿の西口の高層階のレストランでご飯を向こうの誘いでしたのを覚えている。その際にもらった誕生日プレゼントの手袋は奇しくも私の手には小さく、いまは嫁がしている。女性の香りというよりもどこか生き物の香り、また絵の具の香りがしていた。絵画制作をしているためかところどころ爪に塗料が付着して、そもそも肩が張っているようなそういう信頼感があった。