■
男子高校生だったころの教育実習の先生との連綿としたつながりは、こちらが既婚者になっても続いている。だいたい一年前に埼玉県の奥にある神社に一緒に行ってからまた一年がたった。中身を気持ち少なめにした仕事かばんを引っ提げて出てきた私は、なんとなく外の空気がお盆の時期にあるすがすがしさと朝の空気にほっとしていた。同じように池袋駅で落ち合い一年間の出来事をざっときく。元教え子と付き合ったが、おそらく精神疾患をもっていて、父親もおそらくDVだった。そういった彼氏とその家庭から警察の手を借りて逃げた一年だったようだ。時たま私のSNSに彼女からの連絡が来ていて、なんどかやり取りはしていたため、その流れをなぞるようにはなしを当てはめて、おやちがう?という部分は聞き直して修正をした。渦中の当時はまるでねずみ講か宗教の中にいる人間をこちらに呼び戻すように訴えかけたが逆効果で、最終的には権力のある第三者、警察が介入して彼女は現実に戻ってきた。一年前の帰りの西武特急でその彼と付き合ってみるかどうか悩んでいた彼女に、付き合ってみたら?と提言してしまったこと、そして神頼みをして帰ってくる車中での話で、それがどう転ぶのか、取り返しのつかないことになるのではないか?と一年の間考えている時間が多かった。ただまたこうして早朝の池袋駅で会えたのは正直なところ安心した。特急車両は新しいタイプに変わっており、それもまた安心できた要素かもしれない。彼からの暴力やことばによるハラスメントを受けていたころ、逃げ出せるチャンスがあり、こちらとしてはいてもたってもいられずに相模原の仕事終わり八王子に抜けて、彼女と会えないかと思って連絡はしていたものの、結局会えなかった思い出がある。感染症の第一波のころだったために、待つといってもお店はすぐ閉まるし居場所がなく、栄えていないほうの駅前のロータリーにある丸いベンチで時間をつぶしたのを思い出していた。特急はそのままお盆なのにもかかわらず空いている特急は飯能で向きが逆になり、緑の多い山岳地帯へ進む。進行方向と逆というのはなかなかないなあと思うが、実に緑の中に吸い込まれていくようで不思議な気分になる。トンネルに入るとリズミカルにやってくるトンネル内の蛍光灯に気を取られる。接続で時間がなかったが、神社まで向かうバスだけは混んでいて、ぎりぎり座れた。私の場合、感情は言葉にするものではなく、もっとエネルギーの高いもやもやとしたどろどろとしたようなものに例えて感じている。それがうまく言葉にはまれば表出するしそれがなければそのまま、ことばにならない感情はいくつもの空気や色、時間軸をもってしかも同時に数種類はいくつもやってくる。自分のそういった感情以前の感覚をもって生きていしまうことが日常的であって、そういった甘い認識力のまま他人の意識を感じている。だから他人の感情を察知することは比較的たやすい。一年ぶりに会っても神社につくまでの3時間ですでにその認識できない感情たちは、彼女のもつ認識できない感情と合流をして、少しずつ乾いていた小川に水が流れていく。さほど流れは速くない。どちらかというと流れ出す水がそこここの小石や木々を確認しながら領域を湿らせていくような、そういった速度だった。暑さが感情を干上がらせるため、神社につきご祈祷していただいているときに私は入り口あたりで涼んでいた。鳥居をくぐって右側にある屋根のついた木造のベンチはお気に入りで、一年に二回くる(わたしも後日ご祈祷していただくために来るわけだが)と必ずこのベンチに座る。艶消しの木のベンチには緑の匂いが染みついており、山の上から神社を漉いてきた風を浴びることができる。その帰りがてら地元の居酒屋でシンプルな鶏肉をやいた料理を、これまた炭酸のぬけたハイボールで流していたが、このころにはとくに感情を固めなくてもつながっているだろうなという感覚に浸かっていた。とても心地がいいのだが、どうしてもその後帰宅すると流れていた小川は必ず途絶える。そしてまた一年か、渇いていく。乾いていくときに起きる物理的変化に対して心は疲労するものらしく、帰宅してからいきなり酔いが回ってしまってまだ21時だというのに寝てしまった。