いつから孤独を飼い始めた。いつからか、思い返してもはっきりわからない。ときにそれは黒くなにか形をかえるものとして片隅にいるときがある。理性を支配するほどに成長しているときもあるし、わずかに味がするほどの度合いのこともある。たとえばさみしくてしょうがないときの孤独や、大人数で食事をしているときに感じる孤独。わかりやすく表出しているときはそんなところだろうか。すぐに孤独を身にまとい、ひとりでいる時間を作ることに容易くなっているのは確かのようだ。ひとりでラジオをしているパーソナリティが、話しているうちに相方がいるようになってくると言っていたが、たしかに一人でいるスイッチが入ると独り言のようなことをこまごまと、口にすらしていない会話を黙々としているときがある。特に寝る前と一人になってすぐのころに夕方だった時が多い。そうした時にはすでに右肩の後ろあたりに例の孤独がいる。なにか口元を抑えるように右側から覆うようにしてそれはやってきて、粘着質とは程遠い透明度のある、しかし黒い孤独。一度飼うとなかなか捨てることはできず多くは一生を共にするのだろう。そしておそらくだが、飼っている人たちは勝手に知り合っていく。どうしてかなにかひかれている部分がある。ひかれるというのは異性だからだとか、そういう動物的な意味合いではなく、もっと人間的な部分で感じる。有名人にとっての公は、オフィシャル、だから有名人がテレビに映っているそのイメージであって、私はプライベート、つまり家に帰る前に不倫しているときである。とだれが決めたのだろうか。そもそも不倫をしているようなプライベートの時間は有名人本人からすればそれが公でありオフィシャルであろう。発想を転換すべきだと思う。飼っているこの孤独は私にとってとても公でオフィシャルなものであると思っている。それをプライベートだとあたかも飼小屋に閉じ込めておくのはオフィシャルを崩しかねないバランスをもっているなといままでの経験上から察している。