夕方の銀座から東銀座を抜けて築地に歩いていく途中の昼下がりの、首都高の上を渡る橋にある柵に絡まる蔦の印象がある。というよりか柵というまっすぐな線の中に蔦の3次元的な曲線が絡まっていて、ほぼ真上からの太陽だったこともあって蔦の輪郭は強調された。心に余裕があるときにおぼえる、フラッシュが不意にたかれたような鮮やかな色合いとは違い、その時はどちらかというと色よりか形、色は彩度を落としモノクロだったのかと思っていても変わりないほどの記憶になっている。そうした記憶を反芻していた今週は、移動距離も多かったために色を感じにくくなっているのかもしれない。原爆の写真をカラーにする技術が生まれたために、それを見た被災者が記憶を思わず思い出す、記憶の溶解ということばがあったが、反芻している過去の記憶はより具体的にその形態をもってくると、その時の心情が重なっているのかなと気になりもする。色の名前まで決まっていないような色まで、認識できている、できていない関係なく、世の中は色にあふれているのに、疲労はその感度を奪っていき、どちらかというと単色、さらにはそのものの形状にしか認識がいかなくなってしまう。東京に23時くらいに着く帰りの新幹線の車窓は暗闇で、疲労とお酒とで認識を形状だけにしていても許される時間なのかとほっとできたのは水曜日のことだった。