考察

これからは情報の取捨選択が大事。

といつぞや授業で聞いた、その取捨選択ということば。

冷たさをもって実感はなく、生きている。

 

なんとなく昨今の公開処刑のようなニュースによる他人の批判。

っていうか、あなたその批判されてる有名人に会ったことあるのか?

イメージでしかあなたに存在していない誰かを、

そう批判して気持ちがいいのか。

 

どうもなんか後味が悪い。

 

考え方としては、他人のイメージは自分の中にある。

他人を批判すると、自分の中にある他人のイメージが批判されている対象に移り変わる。つまり、自分のなかに悪ができている。

ただ、それも自分の中に起きている悪に過ぎない。

 

悪をもってなにを自分を支えてるか。

やはり、私は善だ。だれからも悪とされないように生きなくては。

こんな人みたいになりたくないな。

そういうところではないかと思う。

 

ただ、そういう「自分は」という、その「自分」も、自分の中にある自分のイメージに過ぎない。そうなるように内向的安定志向の中で自分の意識を動かしている。。

 

やはり後味が悪い。

というのは、一連の意識の動きの中で他人の実際が出てこないのだ。

しかし、じぶんはここまで意識化するまでもなく、他人のイメージを他人としてとらえているのではなかろうか。ネットやSNSで他人が何をしてるのか、どうして悪になったか、他人と話さなくてもわかってしまう。さらに、他人のすべてが読み取るようにわかるわけではなく、イメージしやすい部分のみが読み取られていく。

 

他人との距離感がどんどん崩壊していき、その存在ですら認識されなくなってきているようにも思う。もっと距離感というのは良い悪いだけではない部分もあるのであろう。

迷惑をかけないでいきれる人間なんていない。どうしてその他人の悪を、悪だ。と批判していくのか。

もっと受け取る側の、受信側が多角的でなくてはならないんじゃないのか。

考察

自分に向き合えるようになってきているのはたしかだが、

犠牲にしてきたことを面と向かい合ってとらえなければならない。

より強い色で消されていた淡い部分を、コントラストが薄まって

明確に、はっきりとみえてきた。

 

それでどうっていうわけではない。

ただ、そういうものかと流れる。

 

日々多くの選択と決断をしているが、

基本的には流れを重視している。

流れの中には挑戦して、不安な選択と決断もするが、

それはその時の流れなんだと思う。

 

ピンとこない選択は、どちらに転んでも、どっちも正解なのかもしれない。

しかと自分の中にしみこませながら。

急にアポイントが詰まっている職場がある

一方で、過疎な医院もある。

これでちょうどいいか。

 

 

いい話もいただいた。

いまいきなりの行動力や決断をするには、

流れがまだ足りないので、できるかどうか、あがいてみようかと思う。

 

ああ、ふりかえって思い出してもまだまだ苦い記憶ばかり。

考察

やはり三日坊主なのか私は。

 

最近は送別会やら、新人やら、

私生活でもいいお話がいくつか来る。

ただ、私自身がどうにもこうにも他人に対して憶病で敏感なために、

普段よりも気を使って疲れている。

意外なほど弱い。

 

スーパー気を使っているからふるまえる性格、

と昔関係があった女性に言われたが、そうか。

いろいろ考えてしまう。

「じぶんのために、自分が決めた選択は、大切にすること」

と、いう去年身を染みて考えて、踏み切ったことを、

今年も大切にしないといけないような気がする。