あとがき。

数学としてとらえれば横の時間軸をもってきて、今を規定すればそれより前は未来、後ろは過去。そういうイメージに固執していたが、過去は今だから存在していることを時間軸は殺める。過去をどう理解してとらえて、表現していくか。たとえば通時的な記憶の塑性がおきる。市ヶ谷駅から四ツ谷駅の線路沿いの堤防を暑い夏の夜に虫さされ防止スプレーと、ほの暗い光の中、どうやって四ツ谷駅につく前に手をつなぐのか。そんな思い出をそこに行くと思いだすし、途中にあったブランコで楽しんでいる彼女を思い出したりする。ただ、それがすべてではない。例えばそこに実際行くともう少し詳細に思い出す。今はないブランコの跡地は四ツ谷駅手前じゃなく市ヶ谷駅寄りだったな。とか。そうすると、いま生きている私が過去を語るうえで、今の現実世界が私の中の過去を溶かしだしていく感覚を思い出す。これを過去の溶出、もっといえば生きた過去なのだと思う。日々の生活の中にタイムラインで流れてくる情報を一方的に、流れてきたそうめんを止めて食べるわけじゃないがそういった感覚でつまみ食いしている今をいきる日々は、場当たり的でいましか連想させない。一か月前のニュースはどうなっただとか先週の思い出を振り返ってお酒を嗜むとか、そういうスペースを心に感じない。どちらかというと過去は写真や文章にして投稿して葬るようなイメージになる。たまにいまから掘り返して過去を生きたものとする行為が人生の細部を考えたときに必要なのではないかと思う。