時間が経った。時間はどうも皆に平等に与えられている、保証されているとも思うのだけど、やや古臭さを感じるのは、感覚的な生物学的時間の要素は薫りくらいにしておいて、なにか大局的な視点で川を眺めるような時間を感じる視点があったんだと思う。

カプチーノを飲んだ後の苦みと甘さを味わう、あのハーモニーというと軽々しいが、味覚と薫りを含めた満たされる感じを時間で感じてみたいというやや突き動かされる衝動を感じている。リズムのあるその機械的な時間に対してそのリズムは、ピアノを弾くときにペースに慌てるその感覚は、今もある。

連絡が急に手薄になったその彼女は、以前の連絡しない時期を考慮すると、

既婚者と付き合う彼女という苦しみを無意識に起こしている時期があったために

なにか蓋をして醸し腐敗している部分があるんじゃないかと思い、周りを嗅ぎまわる習性に現れているようにも思う。油が浮いている水面を救うときに髪の毛のタンパク質で吸収していることには感嘆したのだけれど、実際はそうやってなんとか油だけを救いたいとなにかひらめきが欲しいなと昼休みが終わるころに思うだけで、欲望の魅せる天頂をするのはいいけど、そのあとの残像を薫りとして残すことで、ああ、それを少しでも救いたいと思わせるような動きをしていきたい。

30連勤のあとで余裕のある一週間においてはなぜか仕事が入らなくて、やや不安としてしまえばそれまでだけれどゆるく心地が良い一週間だった。

 

それから半年が経ち、9月に予約がなかなか取れないレストランで食事をした。会う回数は二年前からしたらいまは月一回あるかないか。二年前はそんなことはなかったが、会うときの顔に多少の曇りを感じていたのは今振り返ると、それはそうだろうと腑に落ちる。水垢はそのうちカビにでもなってしまい、根強くこすっても取れないタイルのような、濃いカビの色は夕方から夜への光がなくなっていく街で見なかったことにしておくと無意識にしていた。なんどかその消えていく感覚をなぞって実感になっていった。たとえば透明な液体に赤いシロップを垂らしていくと、滴数が多くなるほど赤が赤くなり、赤だったのだと認めていくその過程に似て、コーヒーにミルクを垂らして広がっていく感覚ではない。その差にはどうも私の不安や焦りが伴っていたのではないかと思う。