言語以前の感情の世界で考えていると気づき始めて、いまは他人の考えや感情をなんとなく接するうちに嗅ぎ取っているのだとやや確信めいている。以前はそんなことないよと自らを消して対応していたが、やはり感じてしまっているのかと思う場面がある。打ち消すことで相手の感情を変えることができるかもしれないが、変えたい相手ならすでにそうしているか。と進んで別れの方向へ、感情で言うと無関心へ追いやる機会がある。ちょっと前まで触るとひんやりするすべっとした木の板の机には、傷がつかないように透明なシートが張られ、その触感を感じることはできない。そうしたようにちょっとした3週間の間の感情の変化が、どうにも私の感情にふたを作り始めている。相手もそれは感じるところがあるのか、二週間たってからはそれを如実に感じ始めた。面倒。という感情に追いやることで無関心を作っているようなそういう構築をしているように感じる。会いに行く通常通りの出迎えではあるが私も気持ちに皮を感じた。それは自分から作っているのか、瞬時に相手からにじみでた薬液に反応したのか、それはわからない。皮がなんなのかというと、疲労感とそれから身を守るための厚みは薄いのだが結構しっかりとした透明なものではなかろうか。恋愛の始まりのころは相手と自分がどれだけ感情が同じになれるのか、一緒にいる時間がとにかく楽しいと思うが、それが過ぎたときに違いをどう認識していくかだと思う。若いころはそれをマジックが切れたころのように思っていたが、どうもそういうことらしい。