まだ学生時代に恋仲であった女性がおそらく殺されたと告げられ、調査協力のために一度押収された携帯電話が手元に戻ってきたころ、ちょうど休みが平日にとっていた週があったことに気づいた。いつも海に行くときは小学生からの仲の友人に車を出してもらうことが多かったし、今回も車を出してほしいと彼に告げた。その前日の夜に、仕事が休みになったから空いたよと返信メールが来ていた。遺体があるであろう場所に行くには鉄道では行きにくくそのこともあって彼に連絡したのだが、時間がたつと、なにか底沼のない暗闇に感情が少しずつ引き込まれているのではないかという感覚というよりかは実感が出ていた。小学生くらいだっただろうか。自分が実はとても小さい動物で、世界はもっと巨大な人間や建物や世界で構成されているのではないか、あるいはそれの逆に私たちが巨大すぎるのではないかと、なぜだか発熱した時にそれを感知して鳥肌が立つような意識を刷り込まれるような恐怖と、目に見えない漆黒かまっしろな雪の中にいるが混ざり合い始めているころに感じる不安定さを覚えていた。それに似た感覚がこの歳になって前日にふいにやってきた。平然とした朝を家族ですごしたのちに決心するのではなく、覚悟でもなく、臭いものに蓋をして足を投げ出す感覚で扉の鍵を閉めた。時間の接続が悪く30分弱次の特急までかかってしまった。足を投げ出したくはやく住居付近から早く遠ざかりたい感覚が強く、特急の前に走っていて結果的に追い抜かれる普通列車でも遠ざかるのならばいいかと思ってしまうほどだった。よく晴れた冬の空気感の中、仕事の合間に特急列車に乗るいでたちの男性数名とわたし。1時間半ほど乗車して隣接県の主要駅で乗り換えたローカル線は1両編成で、なるべく自分が落ち着く音楽を聴きながら、太陽は昼の光を車内に運ぶ。もし車でここに来るとして友人とはいえ2時間は他人といなくてはいけない。この冬の日の晴天と、鬱蒼とした精神状態の間にできるのであれば他人はいてほしくないと思っていた意識の輪郭がはっきりしてきた。1985年開通したこの路線は、ローカル線にもかかわらず高架のホームだったが、駅前には車の点検をしてしまっているタクシーの運転手しかいなかった。お願いして乗り込み、5キロくらいだと見積もっていたが距離を感じると歩くには無理だったと思う。その角を曲がった先を、首を突っ込んで覗くときに必要な勇気と覚悟のようなものが要るのではないか。もはや方言交じりの運転手の話などうわの空で、駅前の閑散さとは裏腹に街道はたくさんのトラックの往来でせわしないときに、心の中で集中して、5キロ先を見透けるようにと数時間前には臭いものに蓋をしていた自分が情けないほどに焦りを感じていた。つきました。と言われて支払い降りたところはまだ海が見えない。駐車場から丘を越えていかなければいけない。家族には何も伝えていないために仕事道具も手に携え、その丘を越える。海からの風をうけて傾く枝や幹の木々が独特な雰囲気を持ち、空は青々としているのに木々は淡い色味で、ある程度整えられた芝生もクリームのような色合いだった。おそらく空よりも濃い、青々とした海が広がっているのだろう。芯の硬い布の塊を掌で抱え込んでいるとしたら、じわじわと手汗がでているのか湿度が上った。丘を越えて見えた海は命が生きているような鮮度で脳に入ってくる。気持ちまでもが鮮度に圧倒され、3月以降止まってほこりをかぶっている古い記憶を忘れそうになる。釣りをしている人が数名いる中ほどよく座れる椅子に腰をかけて思ってつくった曲を音量最大にして聞いた。曲を聴くというよりはその間に瞑想をして、なにか声が返ってこないのか心の中で研ぎ澄ました刃先をゆっくりと回転させる。なにかを触れることができないのか。そう思いながら20分の曲は終わった。北上をして海の家の廃墟があるあたりではコンクリートが崩壊しており、その先に廃墟になったホテルと広々とした駐車場があった。