地理的には湯河原駅は熱海より手前なのに、熱海のほうが気軽に行ける感覚になるのは新幹線のおかげなのか。ひっきりなしに発車していくのぞみの合間にひょっこりと走るこだまにのるために中央改札で待ち合わせをしていた。梅雨だというのに適度に晴れた夏の湿度は、昼前の太陽の位置に似て、言い訳ができない心のせかし方と似た詰まり具合を感じる。欲に忠実で元気な人は、小柄で、左側の八重歯がみえる。気軽に行きたいために自由席で降りた熱海駅のホームは端っこで、気が抜けたような夏の空気は潮風を感じながら階段を降りた。こちらには帰る家があるために日帰りで借りたホテルで一通りを済ませ、塩分のきいた熱のこもるお湯は、いかにも熱海らしい。熱い海水浴のようなものだ。いつぞや朝早くに旅館をでていった一夜限りの女性がいなくなった後に一人で朝食がてらビールをのんだファミリーレストランを右手にみながら、私に海に入ろうよと誘う彼女を断る。砂がついた靴で帰宅するわけにはどうもいかない。糸川沿いにあるカフェー建築という昭和時代の赤線建築がとても好みで、なんともあでやかな壁のいろと、モルタルのデコレーションが、こもった畳や、油、少し年齢を重ねた女性の匂いを思い出させる。すぐ突き当りには現代のキャバクラやそういう類のお店があり、どこの女性かわからない画像をやたら大きくした看板がそこここにみられる。橋を渡り反対側には、ひねると温泉がでるラブホテルがあったが、どうにも見つけられなかった。以前小田原あたりに住んでいた、ちょっと家庭の様子が見え隠れするような表情と、会話の際の言葉の口から出る強さと選択が、癖として感じられた女性といったことがある。箱入り娘というより軟禁か。しつけの厳しさが彼女の中に負の空気をもたらせていた。そうこう通時的な思考と、共時的な感情のバランスを保ちながら、海岸近くのコンビニでタクシーを呼び駅に戻った。水割りのウイスキーを片手に、ひとけのない新幹線のグリーン車で甘えている彼女を見ていると、なんとなく心がほどけていた。車窓から見える街灯が、スローモーションと残像をつよく魅せてくるころになると、やや目が赤くなっているのを認めた。