なにか、何年も苦労して歳重ねてから花開くまでは苦行の日々だという、今現在の幸せよりか先にそれを求めていた時代から、どうやら、今どのように充足した満足感を得られるかに意識が移行しているように思う。もちろんそれは便利なシステムができそれに依存する日々の中で、先々を考えなくてもよくなった、あるいはより情報が増えてきたことが影響しているのではないかと思う。吉原細見という新吉原遊郭時代の遊女ランキングが、お客の案内冊子になっていること以上に、ランキング化することで遊女たちの精神的支配をしていることに気づく。トップは充足するし、下位は、働く場所も決まりそれなりの仕事しかない。そういったシステムが経済を、特に資本主義の中でジェンダーの区別が独り立ちしていった時代背景を考えつつ、いまはそれがとても異質だと気づくが、当時は当たり前のことだったのだろう。

進路予測が難しい台風がきていた。わずかながらの暖かみですらない、冬の色味の濃い雨が、台風によるものだといわれてもどうしてもイメージが合わない。神奈川から富山へ行く途中の長野のホテルで前泊することにした。最終ではまだ富山まで行けるのだが、どうしても仕事と関係のない土地がらで気持ちを休めたい有機的な感覚と、せっかくの機会だからとあえて長野行きの新幹線で終点まで乗るということとした。終着駅までのるということは、通過駅で降りるよりも安易にできることで、それは東京駅で降りる場合、上野で降りるのとは違った安心を持って列車に揺れている。20時ごろ長野駅に着いたころには、雪の香りを鼻先にかすめている。金曜日の夜だったことは、そのあとせっかくだからと窓を開け長野の空気を吸い込むと階下から若い声が絶えず聞こえていたことから気づかされた。翌朝、東京からの始発の新幹線は定時に出るか、あるいは遅れるかわからないため長野始発の新幹線を選んだ。つくには早すぎるが、なんとなく目が覚めてしまった薄暗い長野の空を眺めていたら、まあいいか。というゆるみを認めた。そうして富山での仕事を終え、感染症も落ち着いたのかツアー客の団体をすり抜けて金沢へ。在来線で京都に向かう。福井のみにしか止まらない速達タイプの特急で日本縦貫線をひた走る。トンネルが多いのは仕方のないことで、聞いていたラジオはたびたび途切れ、仕事をしようとしたPCも揺れるためにタイプミスが連発した。もういいか。と昨日長野で買ったウイスキーのミニボトルをそのままのどへ流し込む。長距離のトンネルで走行している際に聞こえる警戒音や徐行を行いながらもひた走る高速の列車は、揺れとともに車窓は暗闇だが圧倒的な威圧感をもって感覚を受動化させる。ところどころで高速ですり抜けていく屋根のないホームでは、そのあとに吹く列車通過時の風をどれだけ後に回しているのか、考えたところで実態はずっとつかめないむごさを覚える。急に音が静かになったと思えば湖西線で、緑一色に塗られた国鉄型車両を一瞬にして追い抜いた。山科のトンネルをくぐると鴨川の鉄橋を超えて速度を落としホームに入る。そのころには雨はまったくなく、温度の名残だけであった。カフェー建築を改築したホテルに泊まった。どこまでも光沢のない漆黒さをもった香りを漂わせる室内と、固めのベッドに横たわって、寺院が隣にあるのだが、すり抜けてきた風を感じながら朝まで睡眠をとれた。夜飲みすぎたのかあるいは疲労なのかよくわからないのだがむくんだまま鴨川沿いを歩き、コンソメスープのしみ込んだカブのスープが本当においしかった。さほど大きくはないであろうことを予想させるスープのしみ込んだカブの繊維を舌先でほぐしているうちに、辛みではない甘さのある根野菜のこくだけがコンソメと混ざり合う。手土産に出町ふたばの豆餅を買い求め、そのまま京阪電車枚方に向かう。道中の風景は仕事で訪れていたこともあり女性に会いに行くというちょっとした浮つきをつまみにして記憶を飲んでいた。見ず知らずの都市について地図を眺めるも、北と南がわからず、地図自体も基準の方向がことなっているものが3枚ほどあり混乱をきたしたため、タクシーに乗った。ただ目的のレストランは知る人ぞ知るのようで、途中であきらめて降ろされてしまった。店の前で繁盛しているレストランをしばらく眺めていると後ろから道幅の狭いためにすれすれをゆっくり走ってくる乗用車に気を取られた。曇り空なのは幸いなのかと思ったのは影がないからで、窓から首を出して位置関係は正確さがあるのではないか。ぶつかりもせずゆっくりと走り抜けていった。席についてしばらくったってやってきた彼女は関西のアクセントでたまに聞き取りにくいのはわたしが関東の人間だからであろう。酒が抜けた穏やかな身体で湿度と気温があったために水の入ったコップにつく水滴のようにおでこに湿度を持っていた。年齢にあったデザイン性のある黄色の上着をきていた彼女は、そういえば手土産を買った後に一人暮らしだと言っていた。てっきり結婚しているのかと思ったとは年頃の懸念事項かもと口には出さなかったが、なにかそれを経験したかのような空気感も持ち合わせていた。湿度が高いと髪の毛はくるんくるんになる私は、それを気にしているほど余裕もなく初対面で緊張をしていた。久しぶりだなこの感覚と思うとともに、会話の話題がかなり飛んでいることに気づいた。どうもコントロールができていない。それほど一所懸命になっていて意識が回っていないのか。とどこか笑ってしまうようになっていた。京都駅まで来てくれた彼女を別れ、一気に解放感が出てくる。会っていて嫌いなわけでもなければむしろ好きなくらいだったが、それでも一人になった時の解放感は大きい。会う前にも一種の気を使うときに出てくるエネルギーの初期値のようなものをマインドセットするときと同じように別れたあとにも感じた。それもあってかすぐにくるのぞみではなく15分後ののぞみにして食欲をみたし、睡眠をするために容赦なくグリーン車を予約していた。日が暮れてきたころ名古屋をでて、そういえば名古屋に住んでいて横浜にオフィスがある彼女は、近いのよと言っていたが、とても新横浜までは長く感じた。本当は浜名湖を通過する際の浮遊感も感じたかったんだが、もう夜の黒みに包まれていた。家に着くとすごくのどが渇きだして水道水を浄水器にかけた冷や水を一気に飲み干したのだが、その際にどうも背中に筋肉や横隔膜あたりに張りを感じた。一日荷物を持っていたためだったかと考えると想像がついたが、感染症由来か?などとまた頭の中をめぐりながら睡眠をとったが中途覚醒でうなされてしまった。月曜日はどうもすっきりとしない時が多いなあと思うが、日曜日の甘えをひきずっているのだと鷹をくくってしまったほうが楽に朝を迎えられるか。とすこし笑ったのは深夜だった。

木でできた木馬はもはや掘ったひとの魂を感じる。あるいは、50年を超えて手入れされている機械は、もはや魂がこもっている。このことは、今は当たり前のように3Dプリンターで作れるようなものとの違いが、まだ若い人でも感じ取れるのではなかろうか。味が出るということばで言えるのかもしれない。どうも人工物に魂を感じていると私は涙がでてくる。だからこの、生き生きとした人工物を覆いかぶせるような緑にも写欲が湧く。ひたすらに毎日目的地に向けて走り続ける鉄道を0歳児から好きだったようにいまもそれは変わらないようだ。したいな。という欲というのはどこからくるのだろうか。大切にしないといけないなと気づいた。

振り返って気づくこととしては、非常事態宣言を出すときに国民が政府に出させたような感があった。あのころを考えてみると、健康な自分がいつ感染するかわからない恐怖や不安で、自分以外の他人をどう制御するか、社会が止まることよりもそちらが強かったように思う。その際に他人の制御を自分から行うのではなく政府という強い力で外的に抑え込む。これに頼るという意識の流れは、個人という当事者の立場から傍観した社会を束ねる空想のポジションから制御をしたいという思考の足りない行動と、その後に自らの社会の制御に巻き込まれていく当事者であることとのギャップを作っていったように思う。専門家の意見を仰ぎたくて必死だったように思うし、いまもどうしていいかわからない場面が多い。どうしてもっと勉強して考えなかったのか。そういったところで依存してしまう便利さと、思考を止めてしまう危うさを思う。

 

SNSスマホによる便利なコミュニケーションが侵食していく部分をもっと考察しておく必要があると思うのだが。世界一の民主主義大国の大統領選を見て思った。そして今日、その方は例の感染症に感染していたことが判明した。

高校時代の教育実習の先生からの、「ひとりのうちにまた」ということばが引っかかっており、すでに両親ともを知っている私は、その日山形駅に向かうタクシーをバスターミナルに終点を変えてもらって、仙台行きのバスに乗った。小一時間の高速バスは毎週のようにつくばから乗っているのだが、始発も終点もなじみがない街であるために、家に帰るためにのるのとは違うためか、心が乾いている。帰るというときに電車やバスに乗っているときに、心が潤っているような気持ちが相対的に認められた。山形県宮城県の境目の山岳地帯をくねるように、しかも高いところを走る。カーブした高い陸橋を超えて次の山のお腹にあいたトンネルに突っ込んでいく。日暮れから宮城県に入ったころには夕暮れとなり、トンネルから上がるといきなり市街地にでた。関東平野の首都圏に慣れている身からすると変化が目まぐるしい。身軽でよかったためにさっそうと知らない土地の繁華街を歩くときはいくぶんだいぶ遠いところにいるようだった。少し腰を痛めていたが白ワインの酔いで鈍感になったまま朝を迎えた。すこしの交わりをもって、まったりとした時間が過ぎていくのを感じながら右足に冷や汗が、湿度をもって感じていた。

フレーミングということばがある。認識をし直すといった意味合いだ。なんとなくだが特に前向きな人というのはこのリフレーミングした際に考え方を刷新しているのではないかと思う。あれだけ感情を持っていかれていた横浜の最上階に住む彼女は同時に経営能力にも優れていると思うが、そのリフレーミングがうまかった。と思っていた。ただ、再認識する際になにか漏れ出ている部分があることにもすこしずつ気づいていた。たとえば砂を救ったのだけれど多少は、一部分が漏れ出て、感情は冷え固まる前に葬られていく。だからなにか本人の前向きさに虚無感と影が少しある。本人は感じていないのかもしれないが。行きつけのお店でビールを飲んでいた際に酔ったお客に手相占いを見てもらった。みてもらったというか見せてほしいといわれたのだった。以前北千住のしゃれたカフェで占い師の女性と話したことがあるが、予想通り席に来た酔った占い師も個性が濃かった。二人の柔らかな時間の上に乗っかってくるような圧力だった。そこで二人とも似ているわよ、繊細で。と告げた。彼女はそれを否定したが、こちらはそれが腑に落ちた。その虚無感と影は生活のどの段階で回収しているのだろうか。私といた時間に回収していたのだろうか。会わなくなって、あるいは関心がなくなってために気づいた面であった。