神領区の165が運用に入るのを好んでいた。JR東海165系や付属編成だけだったが113系は背もたれに白い布を置いてくれていて、かつ台車も灰色に塗られて清潔感があった。当時東京駅発の大垣夜行373系で指定席だったが、大垣救済臨時は品川発だったが全社自由席だった。定期便は途中から普通列車となり名古屋方面の朝の普通列車を担う一方で救済臨は大垣まで飛ばし、関西にも早く着くことができた。当時の救済臨は神領区の165系、新前橋の165系、田町の165と167、さらには神領113系も投入されていた。いまは上野東京ラインで使っているホームは当時臨時ホームで、国鉄の茶色に塗られた103などが展示されたことがあったように思う。

夏の暑いころに9時半ごろに品川駅の臨時ホームで並んだころにはすでに並んでいて、ただ席には座れるだろうという並び具合ですでにその時刻を把握していたように思う。高校で仲の良かった友人と乗り込んだ165系ボックスシートは確かにすぐにうまり、横浜を出ると通路までうまって立ち客も出ていた。向かいの酔ったサラリーマンは東京からいたのだが、熟睡していたが、とうとう翌朝岐阜で降りたがあれは正解だったのか?とぐだぐだ睡眠もせずに話していた記憶が懐かしい。豊橋でたしか長時間停車をして一度コンビニで夜食をかったこともあったが、この込み具合じゃ無理だとくくった思いでがある。そのころには進行方向向かって左手に朝日の日差しがはいるころに重たいモーターのうめきとともに貨物ターミナルをすり抜ける。非電化の区間が多いためか気動車の油のにおいが窓から入る。長良川を渡るときの朝日が気持ちよかった。大垣駅には一番のりばにつく。一か所しかない乗換階段のいちをめざしみなおもむろに席から立ち上がる。

一夜をうるさく、風もはいる東海道を、油のにおいとなんでもない時間で過ごして、しょうもなく寝不足で乗り換えるために気持ちをせかす大垣駅に着く前せわしなさ。

何回もそれを繰り返しているからか、米原につけば長編成の新快速がいるからいいやと高をくくっていたように思う。ふるびた窓枠にRのある113系が待っていて、前日に関ヶ原には雪が降ったのであろうと思うような風景が流れる。すぎる途中駅の喫茶店で昔、真夏の撮影後に友人がアイスクリームを食べたくてアイスといったらアイスコーヒーがでてきてやや文句をおばちゃんにいったらかるくあしらわれたことをいつも、いまも思い出している。透明度の高い記憶はみずみずしい緑の畑とその奥の深い緑の荘王さに、いまも新幹線からみての関ヶ原という場所には感じてしまう。引き込まれるような場所だと思う。さて、米原には日本海からの線路が合流する交通のいわゆる辻だが、これがまたとても味わい深く、米原駅特有の空気を放つ。いまは気軽にホームを跨げばしらさぎは止まっているのだが、ホームのそば屋や洗面台が駅のホームにあることや、以前は気動車も出入りしていた形跡をのこすスペースが旅情を掻き立てる。のぞみが通過することはとても現代的だなと感じる。

昔の時刻表から眺めていると、JR西日本自慢の新快速は徐々に米原、いまは敦賀まで伸ばしている。以前は京都、草津どまりだったようだ。都市間の連絡性が増えているのだろう。583系のように寝台、座席、A寝台、グリーンなどを兼ね備えた合理性を求めた車両は、その後日本海縦貫線には似合った。点在する都市に対し走る夜行列車が深夜であろうが需要があり必要に応じて利用するといった急行きたぐにを育て上げた地区でもある。通勤ライナーやそういった通勤に使う優等列車は都心で育てた列車であるし、新幹線も幹線を育てた結果だろう。583系はそれにあったニーズに対応できた車両だったのではなかろうか。

仙台電車区583系を青森から6連に短縮して全検に通したのには心底驚いた。485系も6連で用いていたことからすると、新幹線ができる前にどれだけ恩恵があったかをおもんぱかってしまうが、それでもロマンがある検査だった。黒磯発盛岡行きの583系臨時快速にのれたのが最後で、仙台で下車した。旅情というものはなかなか感じる暇もなくなっている。